【1】グランプリ対策としてスカイラインGTを生み出していたプリンス|最強のレース組織 日産ワークスの歩み Vol.1

スーパーGTで活躍するニッサンGT-R。日産ワークスの最強たらしめるのはGT-Rの存在があってこそなのだ。

       
日産自動車のレース活動は、スーパーGTでのニッサンGT-Rの活躍ぶりからも分かる通り、国内での最強ワークスの座を今でも守り続けている。多くのスタードライバーの輩出も連綿と続いている。ここでは、プリンス自動車のレース活動も含めて、戦後の日本において本格的な自動車レースの始まりとされる1963年の第1回日本グランプリから、1970年のごろの各自動車メーカーがしのぎを削った時代を中心に振り返ってみたい。

 その開催がモータースポーツ元年、モーターレーシングの曙、と認識される第1回日本グランプリだが、日本のモータースポーツ界に与えた影響は、良くも悪くも大きなものがあった。振り返れば、自動車メーカーの直接参戦を禁じた大会規定の趣旨は、広く一般にモーターレーシングの門戸を開放するところに、その狙いはあったのだろうが、規定解釈の巧拙によってメーカー間の戦績に大きな差違が生じる結果となっていた。

 なかでも、昭和20年代から英オースチンとの提携で、技術力には絶対の自信を持っていた日産と、中島飛行機(立川も含め)を出身母体とし、市販車両の性能水準では群を抜く高性能ぶりを見せていたプリンスは、まさかの結果に大きな衝撃を受けていた。

 加えてトヨタがグランプリの凱旋報告を、新聞等を使って華々しく展開したことで、敗戦メーカーの屈辱感はピークに達していた。第1回日本グランプリの宣伝効果は、現代の基準で想像するよりはるかに大きく、こうした有形無形の影響力が、翌年の開催が決まった第2回日本グランプリに向け、各メーカーの大きな原動力となって働いていた。


 こうした意味では、企業規模こそ大きくなかったが、グランプリ対策としてスカイラインGTを生み出していたプリンスの動きは、突出したものだった。客観的に眺めれば、企業体が小ぶりであった分だけ、1点集中型のプロジェクトを立てやすく、小回りが利く体質にあったということだろう。こうした傾向は、現代の企業にとっても共通して言えることだ。

「生沢徹のスカイラインスポーツが走っているテレビ中継を、たしか昼食をとりながら見ていたと思います。てっきり、トップグループを走っているものだとばかり思っていたんですが、『なんだ、中団じゃないか!』と分かり、がっかりしたことを覚えています」と、今も鮮明な記憶を振り返りながら語り始めたのは、当時プリンス荻窪工場の実験課に籍を置いた入社6年目の古平勝だ。後に「スカイライン GTの使い手」として、勇名を馳せることになる古平だが、当時はまだ一実験課員として、レースとは無縁の世界に生きていた。


「グランプリで負けたあと『お前ら、なにもしなかったのか!』と上層部から叱責されましてね。いや、本当になにもしなかったんですよ。鈴鹿にすら行ってなかったんですから」と苦笑するが、こうしたあたりに技術先行型で世渡り下手の、プリンスらしさが垣間見えるからおもしろい。敗戦の理由は技術にあらず。レースが額面どおりにいかないことを実体験する、むしろ好機と言える敗北だったことは、プリンスが歩んだその後の足取りを見れば、一目瞭然で納得できるだろう。

クルマ



掲載:ノスタルジックヒーロー 2011年8月号 Vol.146(記事中の内容はすべて掲載当時のものです)

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text&photo:Akihiko Ouchi/大内明彦 pohoto:Ryota Sato/佐藤亮太 cooperation:Nissan Motor Co.,Ltd./日産自動車

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